秋も深まり、10月に入ります。
どうしても忘れられない秋は、昨年の10月です。
—昨年の10月—
10月15日。あの日は中央線の201系、最終運用の日でした。
私は、中間考査を控えながらも学校が終わると同時に一目散に駆け出し、武蔵境へ向かいました。
日が暮れかけた空の中、まばゆい光を照らしながらあのオレンジ色の車両が来ました。
わずか1分にも満たないチャンスの中、何度も何度もシャッターを切り続けた事を今でも覚えています。
豊田に行くことも叶わず、あれが最後に見た本当の中央線でした。
あの夜PCを立ち上げ、早くもYouTube公開されていた「最後の車内放送」、「最後の入庫風景」を見続けました。
知らない間に涙も出ていました…。
10月17日。
試験前日のその日。
勉強など手につかず、家を飛び出し、よく行った浅川鉄橋脇の市場までペダルをこぎ続け、目の前のオレンジ色の車体を呆然とながめて、帰りました。
夜のニュース7での特集は当然201。
とはいえ、どこでも201系が取り上げられるのを見ると、頭が真っ白になりました…。
—自分はこれから何をしていくことになるのだろうか—
そして最後にオレンジ色の201を見た時、それは私の祖父の命日であった10月23日でした。
学校で試験を終え、切符を手に一路長野を目指しました。
しかし、学校で携帯を盗まれたことに気づきました。
探すと乗車できるかどうかのギリギリの時刻。
携帯をあきらめ、友人と共に学校の坂を駆け抜け、新幹線に乗車できる最終の快速列車に間に合い、東京でも5分の間に乗り換えをこなせました。
そして辿り着いた長野の地。
その年5度目となる長野の駅舎もすぐに走り抜け、このやせ細った体で無我夢中に3kmを走りました。わずか20分後。
信越線の線路の先に待っていてくれていました。
ラッセル車、通学で世話になった209系、113系、EF62…。
疲れた顔に見えた彼らの中に201が居ました。
尾灯が切断され、ヘッドライトがくり抜かれ、電照幕も方向幕も抜かれ…。
もうそれが通勤ラッシュ、そして私を支えていた201だとは思えませんでした。
ただ真っ直ぐな視線。
それはどこか懐かしいものでした。
そして、私は家族の待つ宿泊地軽井沢へ去っていったのです。
あの数日後。彼は鉄壁の囲いの中で静かに息を引き取りました。
そして今。
私は鉄道好きには代わりありません。
ただ鉄道の何が好きなのかが不明確になってきました。
201に乗って今一度答えを確かめたいこの頃です。
なぜなら、201は私の先生であり、サポーターであり、恩人であり、恋人でしたから…。
秋。それは別れのシーズンでしょう。